一昨日はナポレオン三世が死んだ日だったが、今日は一緒にパリ大改造をやったオスマンが死んだ日。ジョルジュ・オスマン - Wikipedia: "ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン(Georges-Eugène Haussmann、1809年3月27日-1891年1月11日)はフランスの政治家。1853年から1870年までセーヌ県知事の地位にあり、その在任中に皇帝ナポレオン3世とともにパリ市街の改造計画を推進した。この都市改造はフランスの近代化に大きく貢献し、現在のパリ市街の原型ともなっている。"
パリの大改造とは:
セーヌ県知事オスマンが取り組んだ最大の事業がパリ改造であった。まず、入りくんだ路地裏をとりこわし、道幅の広い大通りを東西南北へと走らせた。また、凱旋門や広場から放射状に広がる大通りを建設した。こうして交通網が整えられたことで、パリ市内の物流機能が大幅に改善された。また、現在では観光名所として名高いセーヌ川の中州に位置するシテ島(ノートルダム大聖堂などがある)は、19世紀当時においては貧民窟と化していたが、架橋、道路建設などを通じて雰囲気を一新させた。その傍ら、新進気鋭の建築家を登用してルーブル宮、新オペラ座などの建設も進められた。こうした首都の大規模な改造は、パリを訪れる各国の政治家を驚嘆させるものであり、ナポレオン3世の威光を高めることにもつながっていた。街の景観を保つことにも配慮がなされ、建造物の高さは一定までに制限された。衛生面においても、上下水道の整備が進められたことで、大幅な改善がみられ、コレラ発生の抑止にも貢献した。大通りに並ぶ街灯の数も増やされ、万国博覧会で訪れた日本人もその風景をたたえている。こうした一連の改造計画は「オスマン化」とも称され、この際の都市計画は、フランス国内にとどまらず各地における都市建設の手本ともされた。
「オスマン化」の恩恵を受けインフラの整備が進んだパリ中心部と、そこから離れたパリ周辺部の居住環境に差が開いたため、富裕層が中心部に居住し、貧困層が周辺部に追いやられる「住み分け」が徐々に進展した。この「オスマン化」の進展と平行して、プランタンなどの大規模店舗(デパート)が次々に開店された。富裕層の婦人などを購買層として狙っており、貴婦人が買い物を楽しむ習慣が形成され始めた。また、こうした大規模な都市開発事業は、当時盛んだった鉄道敷設とあわせ、多くの労働力が必要とされた。そのため、こうした一連の開発事業は雇用を創出することにもつながった。
フランス・プロイセン戦争(普仏戦争)敗勢による混乱の中、一時的にパリで労働者たちによる社会主義政権(パリ・コミューン)が成立したが、わずか2ヶ月程度で軍事鎮圧された。この背景として、二月革命で反政府勢力を助けた路地裏がオスマンの都市改造によってなくなったため、コミューン側の兵士が市街戦においてバリケードを作れなかったことが指摘される(フランス第二帝政「都市計画」を参照のこと)。
まさにいまの東京に求められていること。ニッポン政府が何もしないでいると大暴動が起きるぞ!
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